翻訳と辞書
Words near each other
・ 三遊亭金兵衛
・ 三遊亭金太
・ 三遊亭金平
・ 三遊亭金時
・ 三遊亭金朝
・ 三遊亭金翁
・ 三遊亭金翔
・ 三遊亭金遊
・ 三遊亭金馬
・ 三遊亭金馬 (2代目)
三遊亭金馬 (3代目)
・ 三遊亭金馬 (4代目)
・ 三遊亭銀馬
・ 三遊亭鬼丸
・ 三遊亭鯉朝
・ 三遊亭鳳好
・ 三遊亭鳳志
・ 三遊亭鳳楽
・ 三遊派
・ 三道


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

三遊亭金馬 (3代目) : ミニ英和和英辞書
三遊亭金馬 (3代目)[さんゆうてい きんば]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [み]
  1. (num) three 
: [きん]
  1. (n,n-suf) (1) gold 2. (2) gold general (shogi) (abbr) 
: [うま]
 【名詞】 1. (1) horse 2. (2) promoted bishop (shogi) 
: [よ, しろ]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 
: [め, もく]
 【名詞】 1. (1) item 2. division 3. class 4. (2) piece (in Go)

三遊亭金馬 (3代目) : ウィキペディア日本語版
三遊亭金馬 (3代目)[さんゆうてい きんば]

3代目三遊亭 金馬(さんゆうてい きんば、1894年明治27年)10月25日 - 1964年昭和39年11月8日)は東京本所生まれの日本落語家大正・昭和時代に活躍した名人の一人。本名は加藤 専太郎(せんたろう)〔関山(2004)〕。出囃子は「本調子カッコ」。
初代三遊亭圓歌の門下だが、名人と呼ばれた初代柳家小せんや、橋本川柳(後の3代目三遊亭圓馬)にも多くを学んだ〔。読書家で博学。持ちネタの幅が広く、発音や人物の描き別けが明瞭で、だれにでもわかりやすい落語に定評がある〔。
当初は落語協会に所属、のちに東宝に所属したが、実質的にフリーであった。
== 人物・略歴 ==
1894年(明治27年)10月25日、東京市本所(現墨田区)に生まれる〔「NHK落語名人選(CD)6」解説〕。
小学校卒業後、本所林町(現在の墨田区立川~菊川界隈)の実家を出て本所相生町(現東両国)で経師屋をしていた伯父の元で奉公修行。近所にあった広瀬という寄席に入り浸り、はじめ講談(講釈)を志し、1912年(大正元年)に講談師放牛舎桃李(放手金桃李、揚名舎桃李、2代目放牛舎桃林とも)に入門。しかし、講釈を始めると客が笑ってしまうため、噺家の方がむくといわれ、講談には見切りを付けた〔。大正2年(1913年)12月、落語の三遊亭圓歌(初代)にスカウトされて入門、三遊亭歌当を名乗った〔〔「歌当」は本名の加藤をもじったものである。〕。入門して2年にも満たない大正4年、二つ目に昇進し、三遊亭歌笑(2代目)を襲名。1919年(大正8年)末には三遊亭圓洲に改名し、翌1920年(大正9年)には入門から6年、26歳で真打に昇進した。師匠と反りが合わなかったにもかかわらず、後に名人上手と呼ばれた同時代の8代目桂文楽や6代目三遊亭圓生、5代目古今亭志ん生らと比べても異例のスピード出世である。
1926年(大正15年)4月、31歳で3代目三遊亭金馬を襲名、1930年(昭和5年)にはニットーレコード専属の噺家になり、以降、多くの落語をレコードに吹き込んだ。1934年(昭和9年)には東宝の専属となり、東宝名人会の常連となるが、東宝系以外の寄席には出演しなくなった〔金馬が東宝専属となり寄席を離れた経緯との理由については矢野誠一の『女興行師吉本せい』が詳しい。〕。40歳であった。
1934年に小林一三によって東宝名人会が設立されたときには、実質的な専属となり、落語協会から脱退して寄席から離れた。後に東宝傘下となった神田須田町の立花には時々出たが、他の寄席には「のせもの」(客演)として出たことはあっても通常の形で出ることはなかった。1949年に立花が廃業すると、そのままでは弟子たちの修行の場が得られないため、主な弟子は自分のもとから離した。たとえば、歌笑(3代目)は落語協会に所属する弟弟子2代目三遊亭円歌に、金太郎(のちの2代目桂小南)は落語芸術協会に所属する桂小文治に預けている。小金馬(4代目三遊亭金馬)は、NHKのテレビ番組『お笑い三人組』の収録で忙殺されており、高座に上がりたくても上がることができないような状態であった。そのため当代(4代目)は、師(3代目)の存命のあいだ師とともに終始東宝名人会に所属し、寄席には出なかった。
1954年(昭和29年)、鉄道人身障害事故に遭遇して片足を切断する。千葉県釣りに行った帰り、総武本線線路の上を歩いていて、鉄橋列車にはねられ、左足を負傷した〔〔ある意味で不注意の誹りは免れ得ないが、当時は線路の侵入対策も現在ほど厳重には取られていなかった。また、農村部・漁村部では現在の様な道路が整備されている場所はまだ少なく、線路敷のある場所が数少ない開けたショートカットのルートである場合も珍しくなかった。〕。半年後に退院し、高座にも復帰したが釈台(見台)で足を隠しての板つきであった〔。出と引っ込みの時は必ず緞帳を下ろしており、自分の不自由な足を見せないよう心がけたが、これは自分の大好きな釣りのせいだと思われたくない、という金馬の意地でもあった。そのおかげでファンは事故後も変わらぬ金馬節を楽しむことができた。1956年(昭和31年)、第7回(昭和30年度)のNHK放送文化賞を受賞。
1964年(昭和39年)肝硬変のため死去。70歳。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「三遊亭金馬 (3代目)」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.